精神科医という仕事

精神科医という仕事: 日常臨床の精神療法
青木 省三 (著)


著者の40年の精神科臨床の経験で得た気付きが色々な視点から語られていて勉強になりました。

精神科医の仕事として、症状の把握や診断はとても大事ですが、適切な治療や支援を行うためには、症状の意味や役割を考え、その人の生活環境や生活史を理解することもとても大切であることが繰り返し述べられていて、考えることが多かったです。

治療には本人の変化を目指す精神療法や薬物療法によるアプローチと、環境を本人に合わせるアプローチがありますが、前者にばかり捉われて、後者の視点が抜けていることもあると思うので、気をつけたいです。

 

 

また、40年の経験をもつ著者でさえ、臨床の力が上達しているのか?と疑問に感じ、対処の道筋が見えてくるからこそ、その分診療がしんどくなったり新鮮な目や熱意が擦り減っていくというのは、悩み続けてきた精神科医だからこその考えだと思いました。


・「これが正しい」というのではなく、「こんなふうに考えられるかもしれない」と患者さんを理解する視点を増やしていく


・安易に「その気持ちわかりますよ」とか「大変でしたね」というのは支持にはならない。支持とは、相手の悩みや苦しみを想像することから始まり、治療者が安易に分かった気持ちにならないこと、分からないところから出発することが大切

 


優しい眼差しで悩みながら臨床を続けてきた著者の経験が語られている本書は、とても有益なものだと思います。

 


精神科医という仕事: 日常臨床の精神療法

100年ひざ

100年ひざ
巽 一郎 (著)


膝が痛いからまず痛み止め、ダメなら注射、それでもダメなら手術といった機械的な診察ではなく、膝が痛い理由をしっかり説明し、根本から治すため時間をかけて以下①~④をやっていくという説明は分かりやすかったです。

①朝起きてトイレに行く前の足放り体操
②体重を標準へ(週一回絶食)
③歩き方(内もも歩き、一直線歩きなど)
④筋トレ(大腿四頭筋など)

症状だけをとるのではなく、原因に目を向けて根本から改善していくという考え方は共感できました。

 

 

痛み止めでは膝の軟骨が増えず消炎効果によって体の自然治癒システムのスイッチが押されなくなってしまうので、毎日飲むのではなく、あくまでも対症療法として頓服する(症状がひどい時のみ服用)のが大事というのは勉強になりました。

また、膝の軟骨が減ると痛いのは微小骨折が繰り返され、安静にして寝ていると1日でカルシウムが沈着して治ることがあり、膝の痛みに波があるのはこのためという説明は分かりやすかったです。

 

 

巽先生の以下の言葉が印象的でした。

「痛みという「結果」だけでなく痛みの「原因」に目を向けること、膝を治す主体者は自分自身だということ、患者さんの意識がそのように変わることを気長に待つようにしている。その時間が患者さんにとって必要な時間だと思うから」

本書では基本的に慢性の変形性膝関節症を対象としていますが、それ以外の膝の痛みの場合(お皿や膝裏の痛み)にできる保存療法も知りたかったです。

 


100年ひざ

病を引き受けられない人々のケア

病を引き受けられない人々のケア: 「聴く力」「続ける力」「待つ力」
石井 均 (著)


糖尿病という病気は初期には症状はありませんが、進行すると下肢や腎臓、目に大きな障害を引き起こします。

しかし、初期には症状がないことから医療の検査結果で「糖尿病患者にさせられる」側面を持つやっかいな病気です。

そんな糖尿病とどう向き合っていくのか、どう引き受けていくのかという考え方が、臨床家や哲学家との対談で語られているのが本書です。

 

 

本書は糖尿病に関わらず、どんな病気や疾患においても患者さんと医療従事者がどう向き合っていくかのヒントがたくさん詰まっていて勉強になりました。

糖尿病だけでなく、がんや依存症などでもよいかもしれませんが、患者さんの身体感覚を通して直接的に理解・納得できる病気になっていない場合、患者は自分ごととして考えられないという気持ちはよく分かります。

ただ、医療者としてはそのままにしておくわけにもいかず葛藤が生まれます。

治療には食事や運動、注射などに関して、患者さんのモチベーションを上げるようなコミュニケーションも必要であり、患者さんとどう接していくか、どんな心構えが必要なのか考えさせられることが多かったです。

糖尿病以外の病気においても、医療者任せにしている患者さん、患者さん任せにしている医療者、どちらの構図もあると思うので、お互いが当事者意識をもって一緒に解決していく姿勢が問われていると思います。

 

 

以下に印象に残っている言葉を抜粋

・河合先生との対談

私は先生の言われるとおり、食事療法もきちっとやるしインスリンも打つ。それで血糖をいい状態に保っている。だけどな先生、私、何が楽しみでこれを続けていくのか、何が楽しみで生きていくのかが分からん。それを教えてくれんか?という質問に対する河合先生の答え。「残念やけど、教えられない。教えられないけど、あなたと一緒に歩むのです」ということをぴったりいえたらいい。それが伝わると、患者さんは自分で必ず見つけられる。「自分にはできないけど、楽しみを見つけられないあなたがどんなに辛いかはわかる」という辛いことを共感する

・中井先生との対談

糖尿病は治らない、100%を患者に要求する、そしてドロップアウトする。悪循環ですよね。毎日100点を取らなきゃいけないなら、私だってドロップアウトする。目標を、人間が耐えられる程度の不規則性を、どれだけ許容する治療ができるかというふうにしたらいい。私は若いドクターには「現状維持が既にメリットである」と言っています

希望は意外なところに潜んでいること、個々人の生活に即して違うこと、しかし、とにかく医師は希望をも処方しなければなりません。「医師」そのものを処方せねばなりません。そして「祈り」をも。処方箋を渡すときには「効きますように」、「うまく働きますように」くらいは言い添えてください。不確定要因が大きいほど、医療者は勇気をもちましょう。

 

 

・中村先生との対談

知ることによって、「なるほどそうなのか」と納得し、愛おしくなることが「愛づる」ということで「愛する」ということではない。愛することは難しいだろうけれども、「なるほどそうなのか。しょうがないやつだけど、一緒にやっていくか」みたいな気持ちにはなれるのではないかと思うのです。同じ知るでも脳に蓄えられたという知り方と、心にストンと落ちたという知り方がありますよね。心にストンと落ちる知り方をしたときに「愛づる」が生まれる

 


病を引き受けられない人々のケア: 「聴く力」「続ける力」「待つ力」

いたみを抱えた人の話を聞く

いたみを抱えた人の話を聞く
近藤 雄生 , 岸本 寛史 著


あとがきに記載されていますが、本書のタイトルの「いたみ」は平仮名で書くことで体の痛み、社会的な痛み、精神的な痛みなどを分けずに包含しており、さらに「悼み」や「傷み」といった意味も含まれていて、幅広い概念での「いたみ」に関して語られていました。

身体の問題を扱う医学と心の問題を扱う臨床心理学では、目的も方法論も異なりますが、本書に登場する岸本先生は一人ひとりの患者に寄り添いながら、両方の視点を大事にする臨床を手探りで行ってきており、その言葉には説得力がありました。

また、聞き手の近藤氏もご自身が吃音を抱えているからこそ、相手がどんな気持ちで話しているのか、想像力を働かせながら丁寧に岸本先生の話を聞きつつ、自分の過去の経験とも照らし合わせて、寄り添うことを大切にしていたと思います。

 

 

相手の言葉に耳を傾ける時には、こういう場合はこうすればいい、というマニュアルのようなものを身につけるのではなく、その都度どう対応するか考えながら、客観的に患者さんと自分自身のやり取りを見つめるという意識をもつという姿勢は勉強になりました。

また、対話をするときの意識として、「意識の水準を少し下げて話を聞く」という話もおもしろかったです。

会話の中に出てくる話題に、その人の気持ちや状態が反映されうることを見逃さず、細部までしっかりと思いを巡らせるのはとても大変なことだと思いました。

患者さんが抱える不安や心配に対して、決して決め付けたり安易な言葉かけをせず、敬意をもって接しながらも、他者である自分に簡単に理解できるものではない、分かった気になってはいけないという謙虚な姿勢を貫きとおす岸本先生の姿には胸が打たれました。

 

 

以下、印象に残った内容を要約して抜粋。

・一見関係ないと思われる語りをつなげて何かを見ていくことについて、「コンステレーション」という言葉が使われる。コンステレーションとは星座という意味で、まさに星座を作るように、語りの中にある点と点からなんらかのパターンを見つけていくことで、話を聞く上で大切な視点である

・医療者と患者とで筋書きや方向性が異なる場合、必ずしも医療者が正しいわけではなく、患者さんとは観点が違うと受け止める。ではどうすれば、そのずれを修復できるかと「葛藤を抱える」ことが対話をする上でとても大切で、そうしていく中で新たな道筋が見えてくると思う

・エビデンスが大事だと強調されると、エビデンス的な観点からは価値を見出しづらい患者の語りが軽視されるケースは多い。エビデンスはあくまでも統計学的な観点からの考え方であり、それに対してNBM(ナラティブ・ベイスト・メディスン)では個を尊重し、個別性に重きを置く。その人の話をよく聞き、気持ちを近づけて想像することを通じてしか見えてこないことが多くある

 


いたみを抱えた人の話を聞く

手洗いがやめられない 記者が強迫性障害になって

手洗いがやめられない 記者が強迫性障害になって
佐藤 陽 (著)


強迫性障害と聞くと、「玄関の鍵やガスの元栓を閉めたっけ?」が最初に思い浮かびましたが、手洗いがやめられないことも代表的なものだと思います。

そんな症状と30年付き合ってきた著者の体験記は同じ病気を抱えている人には参考になると思いました。

 

 

本書に出てくる「6割主義」や「できたことに目を向ける」などは、他の精神疾患でも役に立つ内容だと思います。

この病気で本当につらいのは「巻き込み」です。

家族などの身近な人を巻き込むことになる患者本人もつらいし、巻き込まれた家族もつらいです。

本書の最後にある奥様との対談で奥様自身が語っていますが、ある程度症状が落ち着いてきた今の方がつらいというのは驚きでした。年も重ねているし、負担も蓄積していたのだろうと想像できます。

 

 

大変な子育てや家事をほとんど一人でこなし、子どもが手を離れたから夫婦で出かけたいと思っても、強迫性障害のことで気を遣うのが大変で近所のスーパーでもヘトヘトになるくらいストレスが強く、外出しないほうがマシと思えてしまうくらいなのだから、ものすごい負担だったと思います。

著者が自分のことでいっぱいいっぱいなのは理解できますが、「僕を置いて娘と出かけるから寂しい」とか「一緒に外出しなきゃ、俺の訓練にならない」といった発言はちょっと奥様への感謝や労いが足りないと感じてしまいました。

 

 

さらに、「それなりに生活を送れているわけだから、別に頑張って治さなくてもいいんじゃないかと思えてきた」とか「治そうと思って月1回カウンセリングに行ってるし、薬も飲んでいる」という著者の発言に対しての奥様の言葉も痛烈でした。

「考えが基本、他力本願なのよ。クリニックに通ってるからなんとかなるだろうという感じ。いつも言っているけれど、最終的には自分なんだよ。治せるのは自分しかいなんだよ」という言葉は著者にどれだけ響いているのでしょうか。

もちろん患者本人がつらいのも分かりますが、巻き込まれている家族の気持ちやつらさにも目を向ける必要性がよく分かる対談でした。

 


手洗いがやめられない ー記者が強迫性障害になってー