ラブカは静かに弓を持つ

ラブカは静かに弓を持つ
安壇 美緒 (著)


全日本音楽著作権連盟、通称・全著連の職員である橘樹は、音楽教室の不正楽曲使用の裁判のため、上司から音楽教室への二年間の潜入調査を命じられるところから物語が始まります。

本書の読みどころは、以下の二つだと思います。


・子どもの頃にチェロを習っていた時に巻き込まれた事件のトラウマを抱えながら再びチェロと向き合うこと

・音楽教室に通う内にできた人間関係に対する、自分がスパイであることの葛藤

 

 


発表会の演奏曲がスパイ映画の曲である「戦慄き(わななき)のラブカ」という皮肉も楽しめました。

最初はただの仕事の一環だと思っていたのが、音楽教室のレッスンを続けていく内にチェロと真剣に向き合うようになり、同じ浅葉先生に習う他の生徒との交流ができたり、先生を囲む会に呼ばれたりして関係が深まっていく中、自分がスパイであることを隠したまま葛藤し続ける橘の心情が丁寧に描かれていて引き込まれました。

音楽の表現に何が大事なのか、ところどころに描かれている言葉も興味深かったです。


・音楽というのは不思議だ。いま目の前にないはずの情景を呼び起こすことができる

・曲を表現する時に一番、何が重要なのか?それはイマジネーションだ。的確なイマジネーションこそが、音楽に命を与える。プロもアマも関係ない。自分が育てた想像力を、この弦の上に乗せるんだ

・初めての発表会を間近に控えてのアドバイス。本番は、ちょっと遠くの小窓の向こうに音を届けるように弾いてみて

 

 


中盤以降、音楽講師の浅葉先生がコンクールを目指すことになると同時に、潜入調査も終わりを迎える時期になり、橘の心がどんどん揺さぶられていく様子は胸が締め付けられる展開でドキドキでした。

物語の終盤、音楽教室の講師が語った

「講師と生徒のあいだには、信頼があり、絆があり、固定された関係がある。それらは決して代替のきくものではないのだ」

という言葉は特に印象に残っています。

 

 

安全や安心を感じる場でないと自己開示はしにくく、自分の話をしても大丈夫という信頼。

その無数の信頼の積み重ねで構築される人間関係。

信頼を育てるのが時間なのだとしたら、壊れた信頼を修復させるのもまた時間なのだという、心療内科の先生の言葉は心に響きました。

最後まで自分の心に向き合い続けた橘を応援したくなる物語でした。

音楽が好きな方におすすめの一冊です。

 


ラブカは静かに弓を持つ (集英社文芸単行本)

スピノザの診察室

スピノザの診察室
夏川 草介


主役の消化器内科医のマチ先生こと、雄町(おまち)哲郎を筆頭に、外科医の鍋島と中将、内科医で元精神科医の秋鹿、大学の准教授の花垣、医師5年目で勉強中の南など、個性溢れる面々が繰り広げる医療のあり方を問う物語です。

著者の夏川さん自身が医師でもあるため、病気の検査、患者さんへの対応の内容がものすごくリアリティがあって、引き込まれました。

 

 

家族を失った甥を引き取るために大学病院を辞め、地域の小さな病院に転職したマチ先生の穏やかで自分の芯がしっかりしている人柄に加えて、甘党なことに好感がもてます。

大学病院では、目の前にある病気の治療を考えればよかったのが、地域の小さな病院では食事をとれない患者への点滴の有無、がんの終末期患者への言葉かけ、認知症患者のがんの治療方針など、万人が納得する正解のない問題を考える必要があります。

90代の肺炎と心不全の女性患者に「動けなくなったらどうする?」と聞かれ、『静かにおじいちゃんを待ちますか」と和やかに答えたり、70代の膵臓がん患者が「もうがんばれない」という言葉に対して、『がんばらなくて良いのです、ただ、あまり急いでもいけません』と答えたり、正解のない医療の難しさがよく分かります。

 

 

どれほど医療が進歩しても技術に人の哀しみを克服する力はなく、勇気や安心も処方できませんが、「私たちにできることは暗闇で凍える隣人に、外套をかけてあげることなんだよ」という、マチ先生の温かく優しい言葉が胸に響きました。

以下に印象に残った言葉を要約して抜粋。

・世の中の医者ってのは、心の中に二種類の人格を抱えているんだ。科学者と哲学者という二種類だ。どんな医者でもこの二つの領域を行ったり来たりしながら働いている。人によって比重は違うと思うし、大半が中道派だがね

・時代は細分化と専門化をすすめとるが、俺はそれを少しばかり元に戻したいと思うとる。外来にいても、入院になっても同じ医者が診れば安心やろう。そしてできれば往診になっても看取りになっても、ずっと診てきた医者が患者のもとに足を運ぶ医療や。時代に逆行しとるから、採算も厳しいし、病院も古いまんまやけど、それでも「安心」ちゅう一番大事なものは提供できる

 


スピノザの診察室

猫を処方いたします。

猫を処方いたします。
石田 祥 (著)


メンタルヘルスと猫を題材にした物語です。

本書では、京都を舞台に

・ブラック企業でパワハラを受ける若手社員

・突然外部から来た女性社員が上司になってイライラする中年男性

・小学四年生の娘との関係に悩む母娘

・しっかり仕事をしないと気がすまないデザイナーの女性

・祇園で芸妓をしている女性

という5つの視点で物語が描かれていますが、共通しているのが猫。

 

 

こころの病院を訪れた患者に「猫を処方します。しばらく様子を看ましょう」といって処方されるのは本物の猫なのです。

猫を処方されて戸惑う患者ですが、なんとか猫の世話をしているうちに、問題となっている症状や人間関係が変化していきます。

短編としても楽しめますが、物語の中盤からは「こころの病院」の謎が深まっていき、最後は猫が処方される理由が明らかになっていきます。

 

 

猫のちょっとした仕草で癒されたり、猫を愛する飼い主の想いにほっこりする話でした。

実際には薬を処方したり、カウンセリングをするのがメンタルクリニックですが、回復に時間がかかるため、治療の一環として猫を処方するというのは案外いい考えかもしれないと思いました。

 


猫を処方いたします。 (PHP文芸文庫)

店は客のためにあり 店員とともに栄え 店主とともに滅びる

店は客のためにあり 店員とともに栄え 店主とともに滅びる 倉本長治の商人学
笹井 清範 (著), 柳井 正 (解説)


本来、店は「見世」と書き、「世」の移り変わりを「見」て、お客様の心の変化を感じとるのが「店」を行うものの務め。

「おわりに」に書かれている通り、いかに楽をして儲けるか、客の足元を見て利益を得るかばかりを求める世の中になってしまった中、商人として原点である

「店は客のためにある」

という考え方が丁寧に解説されていました。

 

 

たんに商売のやり方や工夫を示すだけでなく、人間として、商人としての「在り方」を示す内容になっており改めて考えることが多かったです。

お客様に対して誠実であること、自らの商いを愛すること、小さくて地味なことを積み重ねていく大切さ、価値の創造といった普遍的なことが、言い回しや例を変えながら繰り返し語られていました。

商売に行き詰ったとき、未曾有の災害に見舞われたとき、何をしたいのか分からなくなったときなどに何度も読み返したい内容でした。

 

 

個人的に印象に残った言葉を以下に抜粋。

・お客様は厳しい存在です。お客様は一度あるものを手にしたり、体験したりしたら、それが基準となります。そして次からは、その基準以上のものを求められます。その繰り返しに応えていくのが商売です

・商いとは、心の中で「ありがとう」と言ってくれるお客様という名の友をつくる営みなのです。商いとは、毎日同じことの繰り返しです。毎日同じことを繰り返すからこそ、気づくことがたくさんあり、その気づきの中にこそ、あなたの商いを改善するヒントがあります

・お客様の抱く不満、不快、不便、不信、不安といった”不”の解消に努めましょう。不満を満足に、不快を快適に、不便を便利に、不信を信頼に、不安を安全安心に変えれば、そこに価値が生まれます。本当の利益とは、新たな価値を創造するところから得られます。そのとき私たちはお客様から「ありがとう」と言われ、そのごほうびとして利益が与えられるのです

 


店は客のためにあり 店員とともに栄え 店主とともに滅びる 倉本長治の商人学

コメンテーター

コメンテーター
奥田 英朗 著


精神科医・伊良部シリーズの第四弾です。

神経症を診る医者の伊良部と看護師のマユミのコンビが帰ってきました!

相変わらずの名医(迷医?)ぶりは健在でした。

 

 

表題作はワイドショーでコロナによる鬱病の対処法を解説する「コメンテーター」として登場します。自由奔放な意見を言う伊良部先生とマユミちゃんのキャラクターは楽しかったし、実際にこんな医者がワイドショーのコメンテーターだったら、おもしろいと思いました。

他にも

・他人のルール違反に怒りを覚えると過呼吸発作を起こす営業マンを描いた「ラジオ体操第2」

・株式市況を見ていないとパニックに陥るデイトレーダーを描いた「うっかり億万長者」

・閉ざされた空間で恐怖を覚える不安障害に苦しむピアニストを描いた「ピアノ・レッスン」

・社交不安障害の大学生の悩みを描いた「パレード」

と、神経症に苦しむ患者さんの話が描かれていますが、薬を処方せず独自の方法で解決していく伊良部先生のやり方は、突飛ですが患者さんの悩みの根本を突いていたと思います。

 

 

「ラジオ体操第2」に登場する、過去に伊良部先生に先端恐怖症を解決してもらったやくざの言葉が、まさに伊良部先生の本質を表していました。


「最初に診察を受けたとき思ったことだが、あの先生、人間に対する先入観が一切ないんだな。見た目で判断しねえんだ。だからヤクザのおれを怖がらなかったし、おれにはそれが新鮮だったわけよ」


そんな赤ん坊のように先入観のない伊良部先生は誰とでも打ち解けていき、気付くと先生のペースに巻き込まれて悩んでいた神経症が治ってしまう。

自分が患者だったら「なんて医者だ!」と思うかもしれませんが、本書を読むと医者にかかっていると思わせないのが本当の名医なのかなと思いました。