先日、
「認知症になっても自分でできないことが増えても穏やかに過ごすことはできますか?」
という講座を受講しましたので、今回はその話を紹介いたします。
講師は、在宅医の小澤竹俊先生と、介護施設運営者の加藤忠相先生です。
講演は以下の2部構成になっていました。
・講演1 支配する、支配しない (加藤先生)
・講演2 「わかってくれる人」になる (小澤先生)
小澤先生は「エンドオブライフケア協会」を立ち上げて、「解決が難しい苦しみを抱えた人が穏やかに過ごせるための、困難との向き合い方」を広める活動をされています。
今回の講座でも、援助を具体的な言葉にすることで、分かってくれる人だと思ってもらい、支えを強めていくことができるという話があり、本人も家族も援助者も穏やかに過ごせるようにするためにはどんなことを考えていけばよいか、勉強になりました。
参考サイト:一般社団法人エンドオブライフ・ケア協会
https://endoflifecare.or.jp/
まず加藤先生の話では、高齢期・慢性期はキュア(治療)よりもケア(生活の質の向上)という話がありました。
高齢期・慢性期の症状は病院に行っても治らないたため、ずっと付き合っていく必要があります。
そんな治らない症状を抱えたおじいちゃん、おばあちゃんを相手に、何をしていくのか考えるのが介護者の仕事だとおっしゃっていました。
現状の医療・介護連携は、ここまでは介護、ここからは看護、医療の仕事という明確な線引きがあったり、施設でもあなたはお風呂担当、あなたは食事担当、あなたは夜勤担当、とやることや時間が決まっていたりと、それぞれの役割や業務が分断化してマニュアル化しており、同じことを繰り返しているだけと言います。
ではどうするべきか。
介護のよさは、医療や看護の前から生活に関わることであり、おじいちゃん、おばあちゃんがどんな人生を送ってきたか、何が好きなのかを医師や看護師に伝えて最後まで一緒に伴走することが本当の医療介護連携ではないか、という話は共感できました。
また、政治哲学者ハンナ・アーレントの著書『人間の条件』の言葉が紹介されました。
人間の活動には「労働」、「仕事」、「活動」3つある。
・労働:いやな仕事でも我慢して働いて対価をもらって余暇を楽しむ
・仕事:対価をもらいながら、誰かの役に立っていることを考えて働く
・活動:対価がもらえなくてもやりたくてやる
「仕事」や「活動」が多い方が社会がよくなると言われています。
では、医療・介護の仕事は「労働」でいいのか。
医療や介護はおじいちゃん、おばあちゃんの生活のほんの一部であり、他に大切なことはたくさんあるはず。
医療・介護の目的は何かがぶれていると思う。
転倒させないこと?風邪を引かせないこと?そうではない。
医療の目的は健康になることではない。
医療や介護を使って地域社会の中で質の高い生活を送ること。
医療・介護者はその杖であるべき。
その杖の医療・介護者が「あなたは薬を飲んで寝ていて下さい」というのはおかしいのではないか。
そんな加藤先生の言葉が印象に残りました。
小澤先生の話は「分かってくれる人になる」ということ。
元気なあなたに私の気持ちは分からないと言われることはよくあります。
観察しても苦しんでいる人のことを理解することは難しい。
痛みあるか?夜は眠れているか?お通じは出ているか?
そんなことを聴いても、その人の苦しみは理解できません。
苦しんでいる人は自分の苦しみを分かってくれる人がいると嬉しいものです。
苦しみを理解するうえで、「葬送のフリーレン」という漫画に出てくる勇者ヒンメルの言葉が紹介されていました。
「生きているということは、誰かに知ってもらって、覚えていてもらうことだ」
「ほんの少しでいい。誰かの人生を変えてあげればいい。きっと、それだけで十分だと思うよ」
コミュニケーションが難しくなっても、その人の尊厳を守るヒントがこの言葉にあると小澤先生はおっしゃいました。
意思疎通が難しくなっても穏やかになることはできるはず。
お迎えが近いお父さんと娘さんがいる状況で娘さんに問いかけます。
お父さんのことでどんなことを覚えているか、どんな人だったか。
お父さんが楽しそうにしていたのはどんなときか。
お父さんが人生で大切にしてきたのはどんなことか。
今お父さんが話ができたら、娘さんにはどんな言葉を送るか。
お父さんのそのメッセージにどう応えたいか。
そんなやりとりをすることで、お父さんの尊厳を守り、本人のメッセージを家族につなぐ。
まもなくお迎えが来るとしても、過去に大事にしてきた言葉をキャッチして、これから未来を生きる大切な人に夢や希望を伝える
「苦しんでいる人は自分の苦しみを分かってくれる人がいると嬉しい」もので、それをどう実現していくか勉強になりました。
私も、誰かの苦しみを分かってあげられる人でありたいと思いました。