セラピスト
最相 葉月 (著)
守秘義務に守られたカウンセリングの世界で起きていることを知りたい。人はなぜ病むかではなく、なぜ回復するかを知りたい。人が潜在的にもつ力のすばらしさを伝えたい。
自分自身も心の病を抱えながら、臨床家を目指す人々が通う大学院に通い、週末は対人援助職に就く人々が通う専門の研修機関で学んでまで知りたかったカウンセリングの世界で著者が知り得たことが、余すことなく描かれていた渾身の一冊だと思います。
以下、「 」で囲っているものは本文から抜粋しました。
冒頭から始まる中井久夫氏との絵画療法。絵を描いた際のやりとりや実際に書かれた絵が示されており、そのプロセスはとても勉強になりました。
「絵を描く際、枠があると守られているような、この枠の中の世界は意のままにしてよいという許しを得たような気持ちが、まるくやわらかくなった。一方、枠がないと直線ばかり使ったようにどこかトゲトゲしく攻撃的になる」
画用紙に枠があるかないかで何が違うのか。これは実際にやってみた人間でないと分からないことだと思います。
本書の前半は心理療法の推移と河合隼雄氏の箱庭療法のことが中心に描かれていました。
「箱庭とは、クライエントが一人で作るものではなく、見守るカウンセラーがいてはじめて、その相互作用によって作られるもの。どんな表現が行われても受容しようとする、治療者の安定した姿勢が箱庭の表現に影響を与える。「自由にして保護された空間」を治療者と患者の関係性の中で作り出すことが治療者としての任務である」
「クライエントが言葉で表現する代わりに玩具や砂によって示す世界を共に味わい、訴えてくるものをしっかりと受け止めることがこの治療法の重要な前提だが、その際、治療者が早急に解釈することに対して河合は注意を促している」
「ある作品はこういう世界を表す、と断定することは治療の流れを阻害し、クライエントの一言では表現しえない思いを決めつけることになりかねない。無用な介入はしないし、完成したあとの質問もできるだけせずに、心の動きに従うことの大切さを強調していた」
箱庭療法はどんなものなのか、なぜマニュアル化することを避けたのか、具体的な事例を元に説明がなされており、とても分かりやすかったです。
本書の中盤からは中井久夫氏の風景構成法やDSM-Ⅲというアメリカ精神医学会の精神疾患分類による診断基準が入ってきた話です。
「患者さんは沈黙が許容されるかどうかが、医師を選ぶ際の一つの目安だと思っているくらいです。でも、十分間の沈黙は本当に長い。でも中井先生は全く平気でした。どうされましたか、みたいなこともおっしゃらない。だって、そんなものは必要ないです。患者さんは何かあるから来ているに決まっているから」
「患者の苦悩に寄り添い、深く関与しつつ、一方でその表情や行動、患者を取り巻く状況に対しては冷静で客観的な観察を怠らない。それは沈黙する患者のそばに何時間でも黙って座り続け、患者の言葉一つ一つに耳を傾ける心理療法家としての姿勢と、その一挙一動に目を凝らし、客観的なデータを得ようとする医師としての姿勢を併せもつ中井の姿勢そのもの」
そのほか、事例研究会の話も実際に著者本人が体験したものであり、具体的に書かれていて勉強になる内容でした。
「発表者はクライエントの服装や化粧の濃淡、話し方の特徴から交わしたやりとりまでを細かく再現し、指導教官や他の学生たちからアドバイスや感想をもらう。自分一人では見えなかったことが、第三者の指摘によって明らかになる。クライエントとカウンセラーという二者関係で行われるカウンセリングには、こうした事例研究会やケース検討会と呼ばれる第三者との意見交換のプロセスが重要視されていた」
本書の後半は、近年の精神疾患の話や心の病を抱える患者さんが増えている話です。
心療内科にかかる患者さんが増加し、一人のクライアントに時間をかけるゆとりがなくなってきました。
さらに、箱庭や絵画のようなイメージで表現する力が低下しているせいか、箱庭や絵画がやりにくくなっているといいます。
その結果、じっくり時間をかけてやる箱庭療法や絵画療法を行うケースは減少してきているようです。
「1970年代から80年代はパーソナリティ障害の一種である神経症と精神病の境界領域にある境界例、1990年代は解離性障害や摂食障害、2000年代に入ってから目立つのは発達障害」
「日本で心理療法が始まってから、だいたい十年サイクルで心理的な症状が変化している」
「近年は、自分が何を思っているのか分からない、何を感じているのかも分からない、ただただ苦しい、つらい、死にたいという患者が多い」
「もやもやしているという言い方が多い。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない」
「二十一世紀になって急速にすすんだIT化や成長社会から成熟社会への転換、少子化や家族形態の多様化など、社会的な要因もある」
「発達障害は昔からあったが、サービス産業の多様化や情報化社会におけるコミュニケーション形態の変化など、社会の第三次産業化に応じて不適応者としてはじき出され、可視化されてきた」
社会の変化とともに、患者に現れれる心の病のあり方も変化してきている様子が見てとれました。
最近では認知行動療法が多く使われているそうですが、一人ひとり異なるクライエントに一つの心理療法を適用するということでは通用しなくなってきています。
これから益々増えるであろう心の病とどう向き合っていくのか、どう付き合っていくのか、多くのことを考えさせられた一冊でした。

セラピスト(新潮文庫)